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隠元禅師が伝えた
黄檗宗の煎茶と普茶料理
【宇治市】
茶どころに息づく、360年の黄檗文化に触れる
宇治市に開かれた黄檗宗の禅寺「萬福寺」は、臨済宗、曹洞宗と並ぶ禅宗の大本山です。
2021年で開創360年を迎えた萬福寺は、歴代の住職の多くが中国から渡来した僧侶だったため、今も中国様式を色濃く残す寺として広く知られています。境内へ足を踏み入れると、きっと誰もが、中国のお寺にお参りしているかのような非日常の雰囲気に包まれることでしょう。
今回は、萬福寺の開祖であり中国の高僧・隠元禅師がもたらした煎茶や精進料理の文化について、宗務総長の荒木将旭さんに話を伺いました。
萬福寺 宗務総長 荒木将旭さん
江戸時代に開かれた宇治の禅寺
萬福寺の開祖・隠元禅師は、もとは中国・福建省にある禅寺「黄檗山萬福寺」の住職でした。中国全土でもよく知られた高僧でしたが、当時の日本の禅宗が勢いをなくす中、再び盛り上げるために度重なる招請を受けて渡来します。
後水尾法皇や徳川幕府四代将軍・徳川家綱公からの崇敬を一身に集め、江戸時代初期の1661年、京都府宇治市に同じ名前の寺を創建しました。
隠元禅師から伝わった中国文化
「萬福寺って『へえ~』とか『えっ』といったようによく驚かれる寺なんです」。教学部長を歴任してきた、京都生まれの荒木宗務総長は楽しそうに話します。
隠元禅師は創建時に、桃の実の彫刻を施した扉や、蛇腹の天井、卍字をくずしたデザインの欄干「勾欄(こうらん)」など中国のエッセンスを建造物に取り入れました。そして主要伽藍は中国の明朝様式にならって中心軸に置き、左右対称に講堂を配しています。
伽藍へと続く、龍の背がモチーフの参道
ちなみに正方形の石を中央に敷いた独特の参道は、龍の背中がモチーフとなっています。中国で龍が皇帝や太子の位を表すことから、萬福寺では住持のみが石の上に立つことが許されています。
さらに、インゲン豆やたけのこ(孟宗竹)、レンコンやスイカ、木魚、テーブル、椅子、原稿用紙などを日本に持ち込んだだけでなく、煎茶や中国の精進料理「普茶料理」なども広め、日本の社会に大きな影響をもたらしました。
ですから境内に踏み入れた先に広がる景色は、何もかもが中国風で異国情緒たっぷり。日本寺院とは全く異なる佇まいであることが一目でわかるでしょう。
当時の人々も同じく思っていたようで、山口県の女流俳人・菊舎尼が萬福寺を訪れた時に詠んだ俳句「山門を出れば日本ぞ茶摘うた」が、今も寺に伝わっています。
「菊舎尼が参拝された時に“まるで中国にいるかのような境内から、門を一歩出でみると茶つみ歌が聞こえてきた。そこで初めて、ここは日本だったんだな”と気づいた気持ちを表した一句です。
私どもの寺は、隠元禅師から13代まで住職が中国の僧侶でしたし、今でもお経は中国語で唱えています。当時は境内で飛び交う言葉も普段から中国語だったでしょうから、輪を掛けて外国の雰囲気だったと思います」と荒木さんは話します。
茶どころで受け継がれるお茶の儀式
今に伝わる茶の文化は中国の禅宗からもたらされました。黄檗宗も例外に漏れず茶の儀式「茶礼(されい)」が大切にされています。
「茶」と聞くと真っ先に「抹茶」を思い浮かべる人もいるかもしれません。新鮮な茶葉を乾燥させて石臼で粉末状にひき、湯を注いで作る「抹茶」は、臨済宗の開祖・栄西が中国から持ち帰りました。そのために、抹茶は禅宗の臨済宗に伝わる茶礼で用いられ、茶の湯の原型となりました。
一方で黄檗宗は「煎茶」の茶礼です。
煎茶は隠元禅師が中国から持ち込みましたが、当時は釜で炒った中国風緑茶「唐茶」と呼ばれる煎茶の前身となるお茶で、薬のように味わう貴重品だったそうです。
「高価だったので人々の間には浸透しづらかった。そのお茶を、黄檗宗の僧侶・月海元昭(別名「売茶翁(ばいさおう)」)が日本中に売り歩いて全国に広めました。ですから、黄檗宗で抹茶は使っていません。そして今でも大きな法要では、煎茶を使った茶礼で始まり、茶礼で終わるのです」と荒木さん。
なお、今では「煎茶道の祖」と呼ばれている売茶翁ですが、境内に本人の像を安置する「売茶堂」のほか、煎茶の味わえる茶席「有声軒」(非公開)が建てられています。
売茶翁の像が安置されている境内の「売茶堂」
茶礼後のおもてなしに始まった中国の精進料理「普茶料理」
法要の終わりに行う茶礼の後に「お茶だけでは物足りないのでは」といった僧侶のもてなしから生まれた食事が、中国の精進料理「普茶料理」です。
萬福寺では、黄檗文化を広めることを目的に、昭和時代から一般の参拝者へ向けて提供を開始しました。
普茶料理は元来「食べ物を一つ残らずムダにしない」考えのもと、僧侶が法要のお供えもので調理する料理です。例えば味付きの素材を揚げた「油茲(ユジ)」や、ごま豆腐の元祖「麻腐(マフ)」。そして調理する際に捨ててしまうような食材の端切れを細切れにして、葛でとろみをつけた「雲片(ウンペン)」などを、油を使ってしっかり味付けし、テーブルにずらりと並べます。
淡泊な日本の精進料理をイメージして食べた人は、全く異なる味わいと品数の多さに驚くのだそうです。
「普茶調理には“あまねく人々と茶を供にする料理”という、食の前では身分は平等なりという考え方があります」と荒木さん。例えば村人と、皇帝に仕える身分の高い人が、ともにテーブルをかこんで同じ料理を食べていた時代もあったそうです。
とはいえ、身分が違うと会話も続きません。そこで僧侶が気を遣い、親睦を深めやすいように、精進の食材で鰻の蒲焼きやカマボコに見立てた「もどきもの」も作っていました。
「『カマボコに見えるけど、何で作ってあるんやろう?』とみんなで話しつつ楽しみながら召し上がっていただきたいですね」と荒木さんは話します。
「隠元禅師が広めた煎茶文化を伝えたい」
「隠元禅師がたくさんの文化を中国から持ってこられ、それを日本が受けいれて今に至ります。私たちが皆さんへ宗旨を唱えるよりも、まずは黄檗文化の一つ、煎茶を隠元禅師が広められたということを、皆さんに知っていただくことが大切です」と、荒木さんは最後に語ってくださいました。
茶道は抹茶だけにあらず。萬福寺が360年前から継承してきた煎茶の文化、精進料理の文化に、今一度思いを馳せてみませんか。