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京丹後のナポリピッツァの名店で味わう、その時期・その日だけの名無しピッツァ
【京丹後市】実家の鮮魚店に店を構えるピッツァオリンピック銀メダリスト
京都の北端にある町、京丹後市網野町。
日本海に面した小さな漁港があるこの町に、地元の人たちがテイクアウトに訪れるナポリピッツァのお店「uRashiMa」があります。ツーリングで立ち寄ったり、車を飛ばしてきたりと、休日には遠方からもわざわざ人が集まるほど。
実家の「藤原鮮魚店」を一部改装し、日本海の海の幸と京丹波の作物をたっぷりのせたナポリピッツァを焼き続ける店主の藤原さんにお話を伺いました。
漁の成果で具材が変わる、その日だけの名もなき1枚
お店に入ると、ナポリの海や晴れた日本海を彷彿とさせる、鮮やかなブルーのナポリ窯が目に飛び込んできます。
今回用意していただいたのは、11種類ものナポリのおかずが載った前菜の盛り合わせと、沖キスのピッツァです。
彩りよく盛り付けられた前菜は、京丹後の農家直送の素材がほとんど。この日届いていたのは、腕の長さほどもあるチーマディラーパというイタリア野菜です。農家さんに赴いて話すうち、「何の野菜がほしい?」とリクエストを聞いてくれたそう。黒キャベツやアーティチョークなど、ナポリ料理に欠かせない野菜が地元で手に入るようになりました。
マイルドな味わいのフィオルディラチーズと、にんにくやバジリコのペーストが引き立てるのはあっさりとした沖キス。こちらは今も鮮魚の仲卸を営むお父様が、漁港でせり落としてきたばかりのもの。
「でも魚は、海が荒れて船が出なかった日などはメニューに出せません。何が揚がってくるかもその時までわからないから、メニュー名はないんです」
定番メニューは31種類。けれどやはり一番人気は、名もなき季節のメニューです。
「今日は何ができますか?」と藤原さんに聞いて、その日だけの一枚を味わってください。
有名ピッツェリアや本場イタリアで修業を積み、網野町での開店を決意
網野町に生まれ育った藤原さんがナポリピッツァに出会ったのは、アルバイト先のレストランでのこと。その縁で関西のナポリ料理の名店、「ピッツェリア リストランテ さくらぐみ」のマスターをはじめ、多くの仲間と出会ったことが、ピッツァの道に進む決め手だったそうです。「ナポリピッツァを極めるなら、一度はナポリに行かないと話にならない」とイタリアへ修業に行くと聞けば修業先を紹介してくれたり、銀メダルを獲得した2012年の「ナポリピッツァオリンピック ファンタジーア部門」に参加したのも、さくらぐみのマスターに誘われてのことだったそう。
帰国後も、神戸北野ホテルのピッツェリア在籍中にミシュランガイドのビブグルマンに掲載されるなど、着々と経験と評価を重ねます。
そろそろ独立して自分の店を持ちたいと考え、京都市内の物件も多く見て回ったそう。しかしいまいちピンとこずに帰省していたとき、改めて地元の人々のいきいきとした姿に触れて「ここでやろう」と決心しました。
「このあたり、春から夏にかけてはひっきりなしにいろんなイベントをやっているんですよ。誘われて手伝っているうちに、みんなめっちゃ元気やな~、って思って。それもゼロから新しいものを作るというより、廃校になった小学校を使うとか、今あるものを生かして面白いことをしようという活気を感じるんです。そうしたら、自分がやりたい店のビジョンがどんどん見えてきました」
なお、uRashiMaで使う薪の一部は、藤原さんが通っていた中学校の担任の先生が「俺がとってきたる!」と、手ずから持ってきてくれるものなのだとか。
本当にみなさん、パワフルです。
父親が仕入れた魚を使うのはマスト!「あるもので作る」が食文化になる
どこに自分の店を開いても、お父様が仕入れた魚を使うのは絶対だったという藤原さん。
「だけど、京都市内で『これは京丹後で捕れた魚です』って話しても、他の漁港で水揚げされたものと、あまり変わらないと思われるような気がしたんです。市内からしたら同じ京都でも日本海までずいぶん遠いですからね。でも網野で店をやるなら、説明なしでダイレクトに伝わるのがいいと思って」
「お前は地元に帰ったほうがいいよ」。かつて北野ホテルで共に働いていたシェフからかけられた言葉も背中を押しました。その方も今は、故郷で生産者と一緒になり、地元を盛り上げながらレストランをされているそうです。
「都会に各地から最高の食材を集めて料理を提供するスタイルは、もう多くの名店が実践しています。これからの時代に新しく店を構える自分たちは、別のことをするべきです。網野には市場がないので、『欲しい食材』は手に入りません。その時期、その日あるものしかない。だけどそれが自然なことなんですよね」
とある料理を作るために食材を集めるのではなく、あるもので作る。
収穫時期が決まっているものをどう保存し、長い期間食べられるようにするのか。
そういった知恵を絞ることで、土地の食文化は作られていくのだと藤原さんは考えています。
「今ないものがあるなら、どうするのか考えるのも僕ら世代の仕事です」
イタリアンに欠かせないトマトも年中京丹後産でまかなえるよう、生産者と協力して作付け面積を増やし、保存方法を試行錯誤中です。
地元の子どもたちの「思い出の味」になりたい
昔は丹後ちりめんの一大産地でもあった網野町。かつて藤原鮮魚店uRashiMaの周りでは、一日中機織りの音が響き、肉屋さん、畳屋さんなど多くの商店がありました。藤原さんは当時のように、小さな専門店が集まり、お互いの領分を尊重しながら暮らしていく町になっていけばいいと願っています。
「一つの店で何もかも完結しなくていいと思うんです。うちでピザを食べたら、食後のコーヒーは向かいの喫茶店に移動するとか、そういうふうになったほうがきっと盛り上がるし、面白い街になっていくと思います」
この町の中でuRashiMaは、子どもたちが大人になっても、ずっと変わらない味でずっとそこにある店になりたいのだと藤原さんは言います。
「料理人はずっと新しいことに挑戦し続けるべきだと昔は思っていました。今は、何十年もひとつのことをやり続ける人がかっこいいと思っています。自分らしいな、とも。だから毎日ピザを焼き続けて、毎日120点のものが焼けるようになりたい。僕のピザを食べて育った子どもたちが20歳になったとき、『懐かしい、変わらへんわ、やっぱりおいしい』って思ってもらえる店になりたいですね」
誰しも「思い出の味」はありますが、生まれ育った土地のものを、ピカイチの腕で焼いたピザを幼いころから食べられるなんて、なんてぜいたくな食の原体験でしょうか。
手に届く範囲の、目の前の食材に向き合うこと。それを毎日積み重ねること。
黙々とピザ窯に向かう藤原さんの姿は、きっと20年後も変わることはないでしょう。